
読み・書き・対話を深化させるトランスランゲージング
の可能性
『英語教育学海外論文解説』第5号は、英語教育の分野で近年大きな注目を集めている「トランスランゲージング」をテーマに、32本の海外論文を解説したものです。
トランスランゲージングとは、複数の言語を持つ学習者が、それらの言語資源を自由に行き来しながら意味を構築していく実践を指します。従来の外国語教育では、「授業は目標言語のみで行うべき」という考え方が主流でした。しかし、トランスランゲージングの視点では、学習者の頭の中には厳密に区切られた「母語」と「目標言語」があるのではなく、一つの統合された言語レパートリーがあり、状況に応じて適切な表現方法を選んでいると考えます。
この新しい視点は、単なる教授法のテクニックではありません。それは、学習者一人ひとりが持つ言語資源を尊重し、より包摂的で人間的な教育を実現するための理念です。本号で紹介する研究群は、この理念が英語教育の様々な側面——批判的思考の育成、ライティング指導、教室での相互作用、教師の信念、AI活用など—においてどのような可能性を開くのかを、実証的に示しています。
本誌に収録された論文解説は、多様なテーマを扱っています。
たとえば、トルコの高校生を対象にした研究では、オンライン学習と対面授業を組み合わせたハイブリッド型授業において、トルコ語と英語の両方を使うことで、生徒たちが批判的思考力を発達させていく過程が描かれています。「ネイティブのような流暢さ」を目指していた生徒が、批判的に問うことの重要性に気づき、テクノロジーと英語が好きだった生徒が文化の橋渡しをしようと決意する—そうした変化の物語は、言語教育が単なる技能訓練ではなく、学習者の思考様式や世界の見方を変えうることを示しています。
また、AI技術の活用についての包括的なレビューでは、チャットボットなどのAIツールが英語学習者の動機づけ、エンゲージメント、態度を向上させ、学習不安を軽減する可能性が示されています。同時に、この分野の研究がまだ初期段階にあり、長期的な効果や適切な活用方法については、さらなる研究が必要であることも明らかにされています。
さらに、教師の信念と実践に関する大規模なスコーピングレビューでは、多くの教師が理論的には多言語主義を支持しながらも、実際の教室では「英語のみ」の方針に従っているという矛盾が浮き彫りになっています。この矛盾の背景には、カリキュラムの制約、評価への懸念、教師自身の言語能力への不安など、複雑な要因があることが示されています。
中国のEFL学習者を対象にしたライティング指導の研究では、チューターが口頭でのフィードバックを行う際に、中国語と英語を柔軟に使い分けることで、学生の議論文の質が向上することが示されています。教師と学生が二つの言語を行き来しながら、文章の構成や論理展開について対話する様子は、トランスランゲージングが思考を深めるための強力なツールとなりうることを示しています。
この他にも多数の重要な研究を紹介しています。これらの研究に共通するのは、学習者の全言語資源を尊重することが、より深い理解、より高い動機づけ、より豊かな表現につながるという知見です。同時に、トランスランゲージングの実践には様々な課題があることも明らかにされています。教師の準備、カリキュラムとの整合性、評価方法、文化的文脈の違いなど、実践を広げるためには解決すべき問題が多く残されています。
日本の英語教育にとって、これらの知見は重要な示唆を与えてくれます。2013年以降、高等学校の学習指導要領で「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針が示され、多くの教室で「英語オンリー」が目指されてきました。しかし、本号で紹介する研究が示すように、母語を戦略的に活用することは、英語学習の妨げではなく、むしろ促進要因となりうるのです。
もちろん、海外の研究結果を日本にそのまま適用することはできません。言語環境、教育文化、学習者の特性など、文脈の違いを慎重に考慮する必要があります。しかし、「言語とは何か」「学ぶとはどういうことか」という根源的な問いに向き合い、学習者一人ひとりを全人格として尊重する姿勢は、どの文脈においても普遍的な価値を持つはずです。
本号が、読者の皆様にとって、ご自身の教育実践や研究を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。完璧な答えを提供することはできませんが、新しい視点から問いを立て直すことで、明日の授業が少しでも豊かなものになることを願っています。
トランスランゲージングは「希望の教育学」と呼ばれることがあります。それは、現状への満足ではなく、より良い未来の可能性への信頼を表す言葉です。学習者が持つ可能性を信じ、それを最大限に引き出すための環境を整えること—その営みの一助となることが、私たちの願いです。
